くまの窓 ~柔道家・柔道整復師・大学教員のいなじのブログ

柔道家で、柔道整復師で、大学教員のいなじのブログです。

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阪神淡路大震災

阪神・淡路大震災から今日で16年。

16年前、わたしは愛知県でひとり暮らしの大学2年生。
忘れもしない、成人式の年だった。

同級生がみんな帰省する中、わたしは故郷の静岡には帰らず。
あんな俗っぽいもんには行かねー!と、成人式には参加しなかった。


1995年1月17日、5時46分。

アパートでのんきに寝ていたわたしは、突然の激しい揺れに目を覚まされた。
地震の多い静岡市でうまれ育ったが、こんな大きく、長い揺れは初めてだった。
驚きと恐怖で、からだが硬直した。

わたしが子どもだった頃、静岡市では、来るべき東海大地震にそなえ、
小学校では月ごと、中学校では学期ごとに避難訓練が行われていた。
他県の子どもたちに比べ、避難訓練の経験がとび抜けて多いのが静岡の子どもである。

そんなわたしだったが、このときは全く動けなかった。
建物の外に出た方がいいのか、とどまった方がいいのかという判断もできなかった。

そのうち、長い揺れは止まった。あとで知るが、この地域は震度4だったという。
寝ていたせいもあるだろうが、非常に大きな揺れだと感じた。
急いでテレビをつけ、NHKを見る。

わかったのは、なにやら関西でとんでもなくデカイ地震があったということだけ。

外に出てみると、早朝だったが、同じアパートの学生たちがわらわらと外に出てきていた。
わたしの部屋の上に住んでいた兵庫出身のKちゃんは、
実家に電話が繋がらない、と、不安な顔をしていた。
携帯電話が普及していない時代である。
わたしも、関西方面の知人何人かに電話をかけたが、全く不通だった。

この日は後期試験が始まる前日で、わたしは一日勉強する予定だった。
しかし、愛知県ではあったが、強い余震が何度もやってきて集中できない。
またデカイのが来るんじゃないかという恐怖で、テレビから目が離せなかった。

徐々に大災害の様子が明らかになってくる。
昼ごろから、テレビでは亡くなった方の名前が報道されるようになった。

すごいことになってしまったな…。
わたしはただ、呆然とテレビを見続けていた。

突然、部屋の電話が鳴った。
柔道部の後輩のEからだった。Eは神戸出身である。
あの、高速道路が横倒しになった東灘区に実家がある。


突然すみません
先輩、テレビ見てますか?
死亡者の名前に、高校のときの柔道部の先輩や後輩の名前が出てるんです
実家には電話がつながりません
先輩、わたし、どうしたらいいですか
どうしたらいいかわかりません
どうしたらいいですか…


涙声で取り乱すEに、わたしは、
とにかく落ち着け!と言うことしかできなかった。
でも、そう言うわたしが落ち着いてはいなかった。
何もできない、抗えない、どうしたらいいかわからない…。

後日わかったのだが、Eの実家は倒壊を免れたものの両隣の家屋は全壊、死者も出た。
Eの実家は、近所で亡くなられた方の遺体安置所となったそうである。

成人式のために帰省していた関西方面出身の学生たちは、
ことごとく大学に戻って来れなくなり、この年、後期試験は延期された。



平成七年一月十七日 裂ける


川柳作家の時実新子は、この日をこう詠んだ。


人生は、時に非情で強大な、抗いようのないちからに押し潰されることがある。
当人の思惑とは全く関係ない方向に転がってしまうことがある。

突然人生を奪われた何千もの人々のように、自分を失うのが怖い。
突然家族を、友を、恋人を奪われた何万もの人々のように、大切な人を失うのが怖い。



あの日、ハタチのわたしはそう思った。
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