くまの窓 ~柔道家・柔道整復師・大学教員のいなじのブログ

柔道家で、柔道整復師で、大学教員のいなじのブログです。

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被災地支援活動⑤ 最終回

 

雄勝町での活動を終え、帰途に就く。

「また来てね~!」「ありがとう!」

何名かの方が見送ってくださった。
すると、クルマに併走しようとする小さな影がとび出した!

「これっ!ジャム!」

避難所わんこのジャムが、わたしたちのクルマを追いかけてきた。
危ないので、クルマは一時停止。

「おめ、連れてってもらうか」

「ここよりいいもんな」

かあさんたちがジャムをつかまえながら笑う。

でもジャム、おまえを連れていくわけにはいかないのだよ。
おまえはここで、避難所の皆さんを元気付けろ。一緒に踏ん張れ。
おまえは皆さんを癒せるだけでなく、いざとなったら犬鍋にもなれるし、すごいんだぞ!

尻尾を振るジャムと、ジャムをたしなめるかあさんを見ながら、わたしも笑った。
笑いながら、複雑だった。

「ここよりいいもんな」

かあさんはそう言って笑ったが、わたしたちはたしかに、「ここよりいい」場所に帰っていく。
わたしたちには帰る家と地域があり、そこには、水もお風呂も灯りも物資もある。

自分だけよければいいのではない。

あたまではわかっていたつもりだった。
しかし、実際に被災地に赴き、避難所の皆さんのからだを触らせていただき、
たくさんのお話を聞かせていただいて、初めて身にしみた気がする。
自分だけよければいいのではない。


皆さんとジャムにあらためて挨拶して、旧雄勝町明神地区避難所を出発する。


帰りも北上川沿いを走る。
相変わらずの片側交互通行、渋滞。
自衛隊員の遺体捜索、排水ポンプ…。

石巻市街を抜け、東松島市のベースに帰還。
わたしのたった2日のミッションは、これにて終了。
時間が許すなら、もっと長期の活動をしたかったが、わたしには教員という任務がある。
それぞれが持つ本来の役割をきちんと果たしてこその、ボランティアなのであろう。


休憩を取る間もなく、荷物をまとめる。
帰りもT先生に運転をお願いする。T先生も、翌日から仕事である。

貴重な機会をいただいたY先生をはじめ、一緒に活動した先生方にお礼を述べ、
皆さんと握手させていただき、東松島市を出発。

帰る直前まで、市街地のこのような風景を見ていた。
停電中の交差点、往来にたくさんの自衛隊車両。

自衛隊車両と停電中の信号


三陸自動車道に乗る直前、見事な夕日と夕焼け。

東松島の夕日


三陸自動車道は渋滞。
わたしは暮れてゆく空を見ながら、めまぐるしく過ぎたこの2日間のことを反芻した。


被災地の風景。

破壊された無人の家屋、割れた窓からはためくカーテンやむき出しになった断熱シート。
跡形もなく流されてしまった家屋の基礎。
ひっくり返り、圧潰された無数の自動車。
海辺からずいぶん内陸に運ばれた船舶や家屋まるごと。
打ち上げられた、たくさんの養殖用ホタテ。魚の死体。
根こそぎなぎ倒されたり、途中でまっぷたつになったりした木々や電柱。
樹高のかなり高い木や、山肌に生えた木の枝に引っかかった、衣類や漁業用の網や浮き。
この高さまで津波が来たんだ…と戦慄する。
そしてどこもかしこも、乾いた潮のにおいがした。


避難所の風景。

大勢が生活しているのに整然とした室内。
全国各地から届けられたたくさんの支援物資。
食糧や水が足りたあとに気付く、細かいものが足りない現状。(例えば入れ歯洗浄剤)
災害用電話、充電器、アンテナ。通信業者が草の根で頑張っていた。
テレビのある避難所、ラジオすらない避難所。避難所間の情報格差が歴然としていた。
お年寄りが「することないから寝てばかりいる」現状。
反面、「若いのがいないからやるしかないべ」と、重労働をしている現実。
仮設トイレ。便がすれすれまでたまっている不衛生なところもあった。
避難所に、個人の持ち物はほとんどない。「身ひとつ、身軽なもんよ」。


柔道整復師として。

柔道整復師には「ほねつぎ」以外にも、たくさんの果たすべき役目がある。
チームで活動をするときは、それぞれが役割を認識して動き、全うすること。
今後、避難所では、介護予防のための取り組みが重要になってくる。
また、災害の現場では、柔道整復師という資格の微妙さ・難しさが、
そのまま投影されるような状況も多いのではないかと思われた。
(大災害時における柔道整復師の役割については、後日きちんとまとめたい)
最も強く感じたのは、「思い」には、たしかな技術と知識とを
伴わせなければならないということ。


そして、出会ったひとびと。

地元で地に足をつけ、地道に頑張ってきたじいちゃんばあちゃん、とうさんかあさん。
君たちがいるから大丈夫だな!と思える、元気いっぱいのちびっこたち。
大変ななかでも訪問者を気遣い、振る舞おうとしてくださる方。
「どうぞ遠慮なく」と声をかけても、こちらを見ずに「いらんいらん」と手を振る方。
自分からたくさん話してくださる方、ぽつりぽつりと問わず語りをしてくださる方。
「どこから来たの?遠くから、ありがとう」。
素朴であたたかい東北なまり。
明るく逞しい皆さんに、逆にわたしが元気をもらった。



短い時間だったが、二度とないような経験に満ちた濃密な時間であった。
書き尽くせない。


今年1月、わたしはこのブログ上で、阪神淡路大震災の回顧録を書いている。
この記事には、実は一度書いて削除した部分があった。

-----------

当時のわたしは福祉系大学に在学していた。
大学には、純粋に「人の役に立ちたい!」と思うことのできる熱い若者がたくさんいた。
そういう友だちの多くが、ボランティアとして関西に向かった。

わたしはそんな仲間たちの姿を知りながら、「柔道部の練習があるから」、
何より「自分なんか行っても役に立たないだろうから」、動こうとはしなかった。

今は、柔道整復師となり経験も積み、少しだけ誰かの役に立つことができるようになった。
あのような大災害が起こらないことを願うが、もし次に動けるときが来たら、
実際に現地に行こうと思う。動こうと思う。

------------

わたしは、かくのごとく一度書いて、その部分を削除した。

本当に何かあったとして、本当に現地に行けるのか?
具体的にどうするつもりなんだ?
仕事の都合やら何やらで動けないかもしれないじゃないか。
有言不実行はカッコ悪い、ここはやっぱり、載せないでおこう…。


今回、実際にことが起こり、様々な縁でお声かけいただき、現地に行く機会に恵まれた。
「実際に動く」ことの大切さと、「微力でも役に立てる」ことを知った。
時が経ち、阪神淡路のとき物怖じして動けなかったハタチのハナタレが、
今は微力でも役に立てるようになっていることを思う。

反面、たった2日の活動で何がわかるか、とも思う。
安易な憶測や達観、励ましは慎まなければならない。
どこから手をつけていいかわからないような復興は、手探りで、始まったばかりである。

でも、ひとびとのあの明るさ、逞しさがあれば、東北の未来は明るい。
わたしは現地で、たしかにそう思った。


わたしが帰京した翌日、死者も出た大きな余震があった。
震源地は牡鹿半島の目と鼻の先であった。

避難所の皆さん、大丈夫だったかな?!

わたしは真っ先に、出会った人々のことを思った。
この「他人ではない」気持ちが、復興の足がかりになっていくんだな、とも思った。


今回このような機会を与えてくださったY先生をはじめ、
一緒に活動させていただいた先生方、本当にありがとうございました。

そして被災地で出会ったたくさんの皆さま。
一見の若輩者を受け入れてくださったことに感謝いたします。
本当に本当に、ありがとうございました。
道は険しいですが、総力戦でいきましょう。
側方支援部隊も、現地実働部隊も世界中にたくさんいます。

そしていつか、同じ道を通って、復興した街と皆さんに会いに行きます。
その日が今から、待ち遠しいです。
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