厳しい暑さは続くが、空は少しずつ高くなり、夏の盛りは過ぎたのだなと感じる。
今朝、公園のけやきの木を見上げたら、セミの抜け殻がいくつもくっついていた。
男の子が抜け殻取りを頑張っていた。
それを見守るお母さんが、もういっぱい取ったじゃん、とあきれたように笑っていた。
その風景を見て、今年の夏も、ふと思い出した。
かつてわたしが、整形外科診療所に勤めていた頃。
ある夏のはじめ、肘の骨折で転がり込んできた4歳のKくんがいた。
上腕骨顆上骨折。子どもの骨折の王様である。
ずれた骨を元通りに治す治療を、わたしが担当した。
この治療は痛い。でも仕方ない。
以来Kくんは、われわれスタッフを警戒し、寄りつこうとしない。
とりわけわたしを「オレを痛い目に遭わせたやつ」と認識したらしく、
いつも固い表情で絶対に笑ってくれない。
切ないのだが、よくあること。これも仕方ない。
骨折だけではなく、夏の暑い時期のギプス固定で皮膚の管理も大変だったのだが、
本人の頑張りもあり、骨折は順調に快方に向かっていった。
しかし腫れが引き、関節の動きがよくなってきても、Kくんは笑わない。
わたしたちスタッフの中でも、「笑わないKくん」は名物になっていた。
夏も盛りを越えた頃。
夏休みにケガをした子どもたちでごった返すリハビリ室。
患者さんたちには申し訳なかったが、2時間、3時間待ちは当たり前だった。
ある日、Kくんのお母さんがリハビリ室に来て言った。
「待ってる間、公園に行ってきますね」。
わたしが勤めていた診療所から歩いて30秒ほどのところに、大きな公園があった。
よく、そこでケガした子が担ぎ込まれてくるのだが、
公園はリハビリ待ちの子どもたちのオアシスでもあった。
Kくん母子は、2時間ほど経った順番直前のちょうどいい頃合いに戻ってきた。
ごめんね、お待たせ。さあ今日も頑張ろうか。
すると、Kくんはいつもの不機嫌な顔のまま、わたしに大きなビニール袋を突き出した。
??
「先生にあげるって、頑張っていっぱい取ったんだよね」
ビニール袋には、50匹は下らない、大量のセミの抜け殻!!
お母さんに聞くと、Kくんは公園に行き、いつものようにセミの抜け殻を拾い始めた。
しばらくして突然、昨日までに集めた「宝物の」抜け殻を、自宅まで取りに行くと言い出した。
自宅に戻って宝物を手にしたKくんは、再度公園に戻り、さらに宝物を増やした。
「すみません、こんなのこんなにもらっても迷惑ですよね」
お母さんはKくんには聞こえないように小声で言って、困ったように笑った。
リハビリ室にいた当時のチーフのシノ先生が言った。
「よかったな!イナガワ先生、セミの抜け殻大好きだもんな!」
…抜け殻大好きって。
リハビリ室の他のスタッフは、笑いをこらえている。
しかし、チーフの合いの手に、そしてKくんの心意気に応えぬわけにはいかぬ。
「Kくんありがとう!センセイ、セミの抜け殻大好きなんだよ!大事にするね」
Kくんはムスっとした表情のまま、ちょっと誇らしそうな顔になった。
リハビリの後、お母さんはKくんの手を引き、
すみませんすみませんと言いながら帰っていった。
その日、全員の患者さんがはけた後。
今日のKくんの顛末で、先輩たちは大爆笑。
シノ先生が改めて言う。
「いや~、イナよかったな!セミの抜け殻50個、大事にしろよ!」。
他の先輩たちも口ぐちに言う。
「こりゃ捨てられないな!」
「宝物だぞ、これ!」
「イナだけに心を開いてくれたんだもんな!」
…。
Kくんの気持ちはうれしかった。本当にうれしかった。
たしかに捨てられない。
しかしセミの抜け殻、それも50個は…
苦渋の決断を迫られたわたくしが出した結論。
診療所のわきにはシュロの木が植わっていたのだが、わたしは、
その幹に美しい配置を考えて50個の宝物を飾ることにした。
翌朝。通院してきた患児どもは、シュロの木を見て大興奮。
「すげー!」「すげー!」と絶賛していた。
しかし、騒ぎを嗅ぎつけた当時の看護師長(当時は看護婦長)が、
シュロの木に止まった大量のセミの抜け殻を見て悲鳴を上げた。
口うるさい婦長さんに、わたくしはこっぴどく叱られ、撤去を命じられた。
悔しかったので、背の低い婦長さんの死角になる、
同じ木の高い部分に全50匹全員引越してやった。Kくんはその後も順調に回復し、お彼岸のころには完治し、卒業していった。
最後までムスっとしたままだった。
彼はいま、立派な青年に成長していることだろう。
「オレを痛い目に遭わせたあいつ」に、宝物をあげたことなど、忘れてしまったと思う。
でも、わたしは毎夏、セミの抜け殻を見てはKくんのことを思い出す。
50匹には困ったけれど、彼が「あいつにオレの宝物くれる」と思ってくれたことは、
わたしの中で、かけがえのない。
十数年前の、夏の思い出。
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| | 2012/08/16 23:12 | |