くまの窓 ~柔道家・柔道整復師・大学教員のいなじのブログ

柔道家で、柔道整復師で、大学教員のいなじのブログです。

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被災地で泥かき〔1〕

12月3~4日、今年5度目となる宮城県へ。
今までの4度は、医療支援活動への参加であった。
今回は柔道整復師としてではなく、「ただ体力のあるやつ」としての被災地訪問である。

今回の目的は、友人Sさんが教えてくれた「スコップ団」への参加。
スコップ団は、亘理(わたり)郡山元町を中心として、
被災家屋の片付けや泥かきをしている集団である。

この団体は珍しい。
事前登録とか原則団体参加とか、「把握のため」の取り決めがない。

決まっているのは、必要な装備で、朝9時にJR山下駅前に集合。
以上である。潔い。

活動の姿は、あの糸井重里さんと、その周囲の方々も記事にしている。


さて、3日。早朝の新幹線で仙台へ向かう。

この日は、日本各地で大荒れの天気予報。
東京も前日の晩から雨。仙台に着いても雨。

そして、3日のスコップ団、活動中止のお知らせ。
なんと、活動を開始してから、初めての見合わせだったそうである。
そんな日に当たってしまうとは。

しかし天気は大荒れ。大変な雨と、そして風である。
中止はやむを得ない判断だったろうと思う。

そういうわけで、せっかく借りたレンタカーで、いつも回っている牡鹿半島へ。
渡波(わたのは)地区から牡鹿半島の西側へ。

もうおなじみになった、クジラの大和煮缶のオブジェもまだ横たわっていた。
窓を開けると、このあたり広範に立ち込めていた、
耐えがたいヘドロ臭はかなり軽減していた。

牡鹿に入ると、雨足は強まるばかり。
いつもお邪魔しているドライブイン瑞幸さんへ。
素晴らしい眺望は、今日は望めず…。

大雨で展望できず


刺身定食をいただく。
近海でとれた魚介の刺身に、なんとクジラ刺も!

刺身定食


牡鹿半島は捕鯨で有名な土地である。
いま、日本の食鯨文化が国際的な物議を醸しているが、
クジラで生活してきた人にとって、反捕鯨の動きは死活問題でもある。

土曜の昼下がり、テレビでは仁鶴さんが「ハイよくわかりました~」と笑い、
テレビの下には捕鯨と鯨食の正当性を訴えるポスター。

日本の、土曜午後ののんきな風景と、国際的倫理的に突きつけられている現実と。
震災をおいても、何やら複雑な気持ちになる。

にかくさんと捕鯨ポスター


リアス式海岸で形成されている牡鹿半島。
道路は激しいアップダウンと急カーブの連続。
加えて海沿いは、地盤沈下で近くなった海面に、強風による高波。

運転しながら思った。

せっかく来て何もしないことが後ろめたい。それにこの荒天。
とてもじゃないが、ドライブという風情ではない…。

何度もお邪魔した十八成(くぐなり)浜。
海水浴場の傾いた公衆トイレや、倒壊した家屋は片づけられていた。
風雨はますます強く。

十八成浜 大雨


そのまま女川町へ。
廃墟となった、マリンパル女川。

周囲の水が全く引いていない。というより、周囲が海面になってしまっている。
津波はこの建物の屋上を超えた。

マリンパル女川


液状化で横倒しになったビル。
写っているのはビルの底面である。

横倒し


女川から雄勝へ。
雄勝町公民館の上には、観光バスが乗り上げたまま。

雄勝町公民館


雄勝を抜け、旧北上川沿岸へ。
新北上大橋の手前を右折すると、大きな被害を出した大川小学校がある。
わたしは今までの被災地訪問で、きちんと大川小学校を訪れたことはなかった。

大川小学校


大川小学校では、全児童の7割にあたる74名と、
教職員10名が死亡または行方不明となった。

校舎のすぐ近くに、慰霊碑が建てられていた。
クルマを降り、手を合わせた。

慰霊碑


慰霊碑の近くには、某大学教育学部の名前が書かれた大型バスが。
これから教師になる若者たちに、この風景はどう映ったのだろう。


そのまま、今日の宿泊地である仙台に戻る。
仙台に戻る頃には、雨もあがっていた。
折しも2日から、「SENDAI光のページェント」が始まったばかり。

仙台 光のページェント


被災地から、クルマをほんの1時間走らせれば、華やかな年末の風景が広がる。
不思議な気持ちである。


〔2〕へ続く

| 仕事・ライフワーク | 01:32 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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被災地支援活動 第5弾〔4〕最終回

  

ねえさまたちにすっかりご馳走になってしまった後、
さらにクルマを走らせ、給分浜へ。

ここは個人宅を中心に避難をしていた地域である。
初回訪問の時には、津波に飲まれてしまったところとそうでないところの境界が
くっきりとしていた印象がある。
今回は、前回は見られなかった仮設住宅が建設されていた。

初回時に訪問させていただいたご夫婦のお宅を再訪する。
変わらず穏やかなご夫婦が迎えてくれた。
ここでは、アンケートにお答えいただくかたちで、じっくりお話をきかせていただいた。

ねえさまと再会


怒りっぽくなるときがありますか?

そりゃとーちゃんと喧嘩すれば怒るわな


イライラすることがありますか?

そりゃとーちゃんと喧嘩すればイライラするわな


涙が出てしまうことがありますか?

とーちゃんとふたりでのんきにやってるからねぇ…


善き哉、善き哉。


施術中


ねえさまは、しかしこうも言った。


生きがいはありますか?

津波の前は趣味の会に行っていたんだけどね、今はなくなってしまった。
生きがいも何もないべな…


生命を脅かされる状況は去り、生活の基盤が整いつつある。
しかし、人はパンのみにて生くるにあらず。
今後は、有り体に言えば、ADLからQOLということなのだと思う。

石巻災害復興支援協議会のボランティアミーティングには、
「エンターテイメント・リラクゼーション」の分科会があった。
娯楽系は、震災直後の混乱期では、受け入れるほうも余裕がなかったと思う。
しかし長期戦に突入した今、炊き出し系、医療系、瓦礫・泥処理系のボランティアより、
娯楽系のボランティアにこそ、息の長い活動が求められるのかもしれない。


週末に何とかねじ込むかたちで活動しているわたしたちは、
午後になると常に帰宅の時間を考えなければならない。
給分浜での活動を終え、仮設住宅の場所を確認しながら、牡鹿を後にする。
帰路は女川町を経由した。

女川町に向かう途中、壊滅した石巻市立谷川(やがわ)小学校の横を通る。

被災した小学校


ここは鮫浦湾に面した、海沿いの学校であるにもかかわらず、
幸いにも、14名の児童、8名の教職員全員が無事だったという。
子どもたちは今、大原小学校で学校生活を継続しているとのこと。

谷川小学校のブログは、震災の日の午前、卒業式の練習をしている子どもたちの姿を伝え、
以降更新が途切れている。


谷川小学校からしばらく進むと、津波の高さをありありと物語る建物が見えてきた。
4階建ての建物の、1階と2階の窓ガラスが残されていない。
これは「東北発電工業鮫浦寮」で、すぐ近くの女川原発の職員が生活していたのだという。

東北電力寮


寮からしばらく進むと、森の間から、大きな鉄塔がちらりと見えた。
Y先生が、「原発って、うまいこと目に触れないように作るんだよね」と。

今回の震災で、女川原発は、大きな被害を出さなかった。
マスメディアによって、頻繁に福島第一原発との比較がなされていた。
しかし女川原発でも、施設の地下で火災が起こったり、
引き波で冷却水の取水口がむき出しになったりということがあったらしい。
まさに紙一重だったということである。


牡鹿半島の東側は、西側に比べ、瓦礫の処理が進んでおらず、
道路状況も悪く、復興が遅れている印象がある。

廃墟になったガソリンスタンド。
壊れた看板が、押し寄せた津波の高さを物語る。

ガソリンスタンド


途方もない量の土砂。

途方もない土砂


地盤沈下で近くなってしまった海面と地面。
波が道路を濡らしている。

地盤沈下


そして地盤沈下は、津波が運んだ水をとどまらせる。

水が引かない


倒壊家屋の処理が進んでいない。

女川町1


市街地に、横倒しになったビル。緑の部分は屋上である。
女川に押し寄せた津波と液状化の凄まじさを象徴する建物である。

女川町では、ビル6棟が横倒しとなった。これは世界的にも珍しい現象なのだという。
町では、被害資料として、保存の方針を固めているらしい。

横倒しになったビル


避難の中心となった、高台に建てられた町立病院。
ここも、坂の下は、まだ水が引いていないのがわかる。

女川町 高台の病院


女川町は、死者572人、行方不明者381人の人的被害を出した。
2月末の人口が10,016名だったというから、実に人口の1割が失われたことになる。
(10月31日現在、宮城県HPより)

女川町は、いわゆる原発城下町であり、地方交付税交付金を受けていない。
近隣と比べると潤沢な財政の町である。
(したがって、石巻市との合併には消極的なのだそうだ)

しかし、この町を、どうしていくのか?
ここに新たな町をつくるのか、住み続けるのか、原発はどうするのか。
女川の人々が突きつけられた現実の重さを思う。


女川町を抜け、わたしたちは牡鹿半島を後にした。

今回、会えなかったひとたちがいた。
それぞれ、出かけていたり、仕事に行っていたり。

今回は雄勝には寄らなかった。
雄勝の避難所で出会った柔道の大先輩・Yさんは、わたしたちと同日程で、
雄勝のPRのために東京、それもわたしの根城である池袋に出てきていたそうである。

被災地から東京へ。

今までとは反対のひとの流れが新鮮だった。
今まで出会った皆さんは、着実に前に進んでいるのだ。



愛知まで帰らなければならないK先生は、仙台駅から新幹線。
今回も、K先生の冷静な分析や博識ぶりに舌を巻くばかりだった。

残り4名は、今回の活動の感想を語りつつ、またここには書けないような話題で
盛り上がりつつ、賑やかに帰路に就く。

仙台名物の牛タンも忘れずに!
利休のおいしい牛タンをいただきながら、
ふと「自粛」という言葉を、いつの間にか忘れている自分に気づく。

利休の牛タン定食


Y先生、K先生、N先生、そしてボンドK。
今回もありがとうございました。毎回が発見ばかりです。
またご一緒させていただく機会があれば、よろしくお願い致します!

そしてあたたかく迎えてくれた牡鹿の皆さま。
「また来てね」の言葉に、勇気づけられます。
今回も、本当に本当に、ありがとうございました!!

| 仕事・ライフワーク | 23:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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被災地支援活動 第5弾〔3〕

 

クルマは峰耕寺へ。
本堂が避難所になっていたが、ここも閉鎖され、住職もお留守。

峰耕寺


引き返すと、お寺の近くに仮設住宅の一群があった。
高台から、今は穏やかな海が望める。
しかし屋外に出ている方は誰もおらず、しんとしている。

仮設住宅


ある住宅を訪問すると、峰耕寺に避難していたおかあさんが出ていらした。

お寺に避難していたメンバーは、だいたいがここの仮設住宅に避難したこと。
週に1回、お寺に避難していた女性たちがお寺に集まり「婦人会」を開催していること。
そこに保健師さんが訪問してくれていること。

また、この地区で数日前に亡くなった方がおり、今日は葬儀が行われているとのこと。
多くの方がその葬儀に出席されているのだそうだ。
ひとがいない理由も判明。

情報収集


ひとがいないのなら仕方がない…とクルマに戻ろうとしたら、
あるお宅の前で、見た顔発見。
お寺で出会ったねえさまが、玄関先で里芋を剥いていた。

ねえさまはわたしたちの訪問を喜んでくれて、「上がってけ」と。

このお宅にはおなじみの顔が集まっていた。
「よく来たね」「また来てくれたんだね」と笑ってくれて、
顔を覚えてもらっていることがただありがたく、うれしかった。

他のお宅の窓からも、訪問者の気配を感じてか、ひょっこり顔を出してくれた方もいて、
N先生とボンドKとわたくしの施術チームは各戸に分散、施術をさせていただく。

と、施術をしていたら何やらいいにおいが漂ってきた。

おひる準備中


「お昼時にすみません」

「わたしたちはもう済んだんだよ、あんたたち、おひるまだだべ?食べてけ」

「いやいや!それは困ります!」

「もう作っちゃったよ!食べてってくれなきゃ困るよ!」


ねえさまたち、わたしたちのために、もう一度炊事をしてくださったのである。
手早さに脱帽、そして、お気遣いに感謝、恐縮である。


「今日来てくれるって知ってたら、新米炊いたのに」

「今度来てくれる時は言ってね、もっといいもの用意して待ってるから」


毎回の訪問で感じていたが、牡鹿半島の皆さんは、
大変な状況でなお、よそ者のわたしたちをもてなしてくださる。

フリーライターの中原一歩氏によると、牡鹿のひとびとには、石巻市街のひとびととは
異なるいわゆる「湊気質(みなとかたぎ)」という気質があるのだという。
湊気質を象徴するのは保守性と閉鎖性であり、牡鹿半島の一部の避難所では、
わたしたちも経験したが、ボランティアを受け入れないところもあった。
反面、湊気質のひとびとは、一度気心が知れれば義理人情に篤い。


ねえさまは、何度もこう言ってくれた。


「いちばん大変なときに助けてくれた恩は、一生忘れませんよ」


涙が出そうになった。

わたしは、支援活動に参加した当初は、使命感に衝き動かされていたように思う。
でも今は、出会ったひとびとにまた会えるのがうれしくて、
何度も足を運びたい気持ちになっているのだと思う。


ねえさまたちの心づくしのおひるごはん、本当においしかった!
ご馳走様でした!

ごちそう

ちなみに、写真のおかずに加え、あと2~3品も出してくださった!


おひるをいただいた後、ふと壁に目をやるとこんな写真が。

ねえさまたちが、貝を開いている作業中のひとコマ。
海とともに逞しく生きてきたひとびとの姿。
この生活が戻る日が来ることを願う。

貴重な写真


施術をしながら、たくさんのお話を聞かせていただいた。
前回、あと50年生きる約束をしたねえさまとも、たくさんお話しする。

今日の葬儀で送られた方は、このあたりで最高齢だったのだそうだ。
これで、ねえさまは「3番目だったのが2番目の年寄り」になっちゃった、と。

「そろそろわたしの番かな」と、ねえさまは言う。

「あと50年の約束ですよ!」とわたしが言うと、ねえさま、
「そりゃ大変だ~!」と前回と同じように笑った。


棚には、たくさんの湿布。
わたしたち施術家の役目は、皆さんが仮設住宅に移ったあともなお、
たくさん残されていることを思う。

湿布各種


ボンドKが最後のひとりを施術している間、
クルマでひとっ走り、ドライブイン瑞幸さんへ。

駐車場と桜


駐車場の亀裂はそのままになっていたが、お店は通常営業。
いつもニコニコのご夫婦は外出中、なんでも今日は
「仕出しの大きな仕事」が入っているらしい。

お会いできなかったのは残念だが、
仕事があるということは、日常が戻りつつあるということだ。

〔4〕へ続く

| 仕事・ライフワーク | 22:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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被災地支援活動 第5弾〔2〕



さて、クルマは東松島から石巻の内陸部へ。

もうおなじみになった道を通る。
変わったところと、変わらないところと。

以前はむき出しだった膨大な量の廃車置場は、背の高い囲いがされていた。

廃車置場の覆い


石巻専修大学には、石巻災害復興支援協議会が設置されている。
この協議会を中心に、震災から半年の間で、
のべ10万人ものボランティアが組織されたという。
同期間のすべての被災県におけるボランティアの総数がのべ69万人弱というから、
石巻のボランティアの数が際立っているのがわかる。

石巻における行政とボランティアの連携は、後に「石巻モデル」として
日本の災害支援のあり方に一石を投じることになった。

石巻専修大学では、9月15日まで、毎晩支援者のミーティングが行われていたという。
わたしも初めて被災地に訪れた時は、このミーティングに参加し、
たくさんのひとや団体の熱意にふれ、胸が熱くなったものである。

しかし震災から7ヵ月がたった今、週末であるにもかかわらず、
広大な駐車場にはクルマがちらほら。閑散、という言葉がぴったり。
前に訪れた時は駐車場は満車に近く、
駐車場わきではボランティアのテント村が活況を呈していた。

駐車場の桜は紅色。
この桜の、花も、若葉も見た。時の流れを思う。

石巻専修大学 紅葉


Y先生が、協議会の担当者に情報を仕入れに行った。
廊下にわたしたち以外の人影はない。

廊下は閑散…


ボンドKとわたくし、腰方形筋のストレッチをしながらY先生を待つ。
施術家は寸暇を惜しんで研鑽するのである。

腰方形筋ストレッチ


N式も教わる。
おおこりゃ伸びる!

N式


Y先生が戻ってきた。
牡鹿半島に向かうクルマの中で、情報をシェア。

現在は、「支援の公平性」が求められるようになっているとのこと。
震災後の混乱期には、ボランティアや行政の支援と被災者のニーズとのマッチングは、
必ずしも適切で公平とはいえなかった。
アクセスの問題もあり、支援の質も量も、やむを得ない地域格差が厳然と存在した。

しかし、インフラが調いはじめ、全容が明らかになるにつれ、
支援は「すべての人と地域に対し、遍く行うこと」が重要になってきた。
すると、わたしたちのような4~5名の小規模チームで行う支援には限界がある。
今まで築いてきた関係を足がかりに、今後も機動力を活かした支援をしていこうと話す。


クルマは牡鹿半島へ。
まずは蛤浜へ向かう。

ここは集落と海との距離が、本当に近い。
沿岸部には、いまだ生々しく家屋の土台のみが残る。
津波が押し寄せたら、ひとたまりもないだろうなと改めて思う。

土台のみ残る


しかし、海面からほんの十数メートルの場所に、新たな建物の建設が始まっていた。
何を建てているのかわからなかったが、
ここでまた生きていく人々の決意なのだろうと思った。

新築中


いつもお邪魔する老夫婦のお宅はお留守。
そのかわり、元気いっぱいのわんこがお出迎え。
泥だらけの足でわしっ!と。

肉食男子っぷりに、ボンドK大感激。
ボンドK、彼氏は、この際わんこでもいいらしい。

彼氏


続いて峰耕寺へ。

〔3〕へ続く

| 仕事・ライフワーク | 22:39 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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被災地支援活動 第5弾〔1〕

超多忙な時期がようやくひと段落。
ここ数週のことを、ぼちぼち記事にしていきます。


10月15~16日、4度目の石巻市へ。NPOとしては今回5度目の活動である。
単発での活動にとどまる団体が多い中、理事長・Y先生の姿勢にあたまが下がる。

15日夕方、熊谷集合。勤務後、急いで向かう。
熊谷駅前で、大学ラグビーのサポートを終えたばかりのY先生とN先生と合流。
あいにくの雨の中、クルマで出発。

今回のメンバーは5名。
医師のY先生、柔道整復師のN先生とわたくし、
さらに臨床心理士のK先生と、鍼灸マッサージ師のボンドKである。
K先生とボンドKは仙台駅から合流。

まずは仙台駅に向かう道中、車内ではN先生チョイスの90年代の歌が流れる。
それぞれ90年代に高校生、大学生だった車内の3名、大熱唱。


まーるーでべーつじーんのー♪

よーけいなーもっのーなどー♪


ふと思う。

これらの歌を、懐メロじゃなく歌ってた頃に、阪神淡路大震災が起こったんだなぁ。
AKBとかそこいらへんが懐メロになる頃、
また何か大きなことが起こるのかもしれないな…。


おっさん3人のガナリ声を乗せて、クルマは北へ。
クルマ班、21時ごろ仙台駅に到着。同じ時間帯に新幹線班も到着!

合流してそのまま、仙台駅内のお寿司屋さんへ!
まずは腹ごしらえで英気を養う。

寿司ーーー!


さて、今夜の宿泊地の東松島市は、仙台からさらに1時間ほど北上する。
車内では早くもボンドKの妄想が炸裂し、おっさんたち、なぜかほっとする。

今回も東松島市の循環器科病院のご厚意で、リハビリ室に宿泊させていただいた。
到着して、ようやくひと息ついた後、今後の活動についてのミーティング。
今まで4度の活動では、避難所を巡回するかたちで活動をしていたが、
今後のアウトリーチをどうしていくか。

実は、わたしたちが赴く5日前の10月11日に、石巻市内の全ての「避難所」は閉鎖した。
石巻市では、3月のピーク時には、259ヵ所の避難所に5万2千人が身を寄せていたという。
多くの被災者は、仮設住宅や一般の賃貸住宅などに移住した。

しかし、全ての避難所が閉鎖したとはいえ、避難者がゼロになるわけではない。
住居を確保できない待機者74名(10月7日現在、石巻市第7回臨時庁議要旨より)は、
2ヵ月間の予定で市内4ヵ所の「待機所」に身を寄せるとのこと。


NPOとして今後の活動につなげていくために、何が求められているのか。
Y先生の地道な努力によって、被災地の方々との人間関係が構築されつつある。
この貴重な関係を礎として、わたしたちに何ができるのか。

ちなみに、われわれの被災地支援のテーマは、「こんな時こそ!」。
医療やスポーツに携わるわたしたちが、こんな時こそできることは何だろう?
いよいよ長期戦の様相を呈してきた被災地支援について、再考の時期である。

こんな時こそ!
写真は、わたしの携帯の裏に貼ったステッカー。


マジメな話が終わった後は、缶ビールを片手に、
いつもどおり?のトークタイム。

ボンドKが、あろうことかK先生の研究所に

ベッキーのお面

を送りつけた話の顛末とか、

免許とメンコは違う

って話とか。

ゴールド「ペーパー」ドライバーのボンドK、毎回クルマを運転したがるので、
怒ったN先生はボンドKの免許証を、ぱしーん!と、メンコにしたのでした。


そして夜も更け、寝袋や毛布で雑魚寝。


さて翌朝。

広い駐車場を見渡す。
初めて訪れた時は、一面、津波が運んだ土砂で覆われていたが今はスッキリ。

病院 駐車場


病院横のおなじみ「すき家」で朝食をとる。
すき家の駐車場には、いまだ打ち上げられたと思しき小舟が鎮座している。
持ち主がわからないから、処分するわけにもいかないのだろうか?

荷物を積み込み、出発準備。

ボンドKが手にするのは、うっかり返し忘れたまま出発するところだった、
リハビリ室の鍵、に、つけられたカエルのぬいぐるみ。

出発!


4度も会っていれば愛着も湧く。
こいつ、病院の外に出るの、初めてだったりして??

かえる外出


まずは情報収集のために石巻専修大学へ…

〔2〕へ続く

| 仕事・ライフワーク | 10:34 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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